アフターダークという作品。特筆すべきは、その手法だろう。

 その第一は、「私たち」という呼称である。単純に考えればこれは筆者と読者を現すのだが、そういうわけにはいかない。なぜなら「私たち」は架空のカメラとして、観念的な視点として、半ば登場人物として半ば物語りに登場するからだ。この手法で筆者は映画と小説というメディアの融合を、小説の側で表現することに成功したと言えるかもしれない。

 次に時間について。たった一晩の出来事に妙に緊張感があるのは、刻一刻と時間の経過を感じさせられるからだ。18ある章の始め毎に一つづつの18箇所にアナログの柱時計のイラストが挿入してある視覚効果は大きい。読者はこの、テキストの半ば外という場所で半ば客観的に時間を意識させられる。加えて、後半頻繁に文章中の場面の転換などで効果的に、このイラストは9箇所挿入されている。ここでも読者は場面と場面が転換する際にテキストの半ば外に出る結果となる。合計27箇所の時計のイラスト。これは過剰だ。

 なおかつ文章中にも時刻が客観的な視点から文字で記される場面が11箇所ある。また、登場人物が会話に時刻をしゃべるのが13箇所。それぞれ腕時計や、モニター、デジタル時計、電気時計を見て時間を確認する動作が入る。これらの文字情報の時刻は、イラストの時刻と呼応しており、否が応でも読者は時間の進行を意識させられる。

 次に空間について。主人公を含め夜の人間達が活動する空間、これを仮にリアル空間としておこう。次にエリの部屋のTVの中の空間、これをヴァーチャル空間としよう。このリアルとヴァーチャルの間を結ぶボーダー空間がエリの部屋とも言える。しかしマリは病んでおりエリが眠ったまま起きないという妄想を抱いているという可能性を破棄する限り、本当のボーダーはTVというメディアである。エリは高橋の発言からリアル空間に実在し、マリの妄想でないのならばエリの病気もリアルでありエリの部屋もリアル空間だからだ。

 このヴァーチャルな空間は不特定多数による暴力がふるわれる匿名空間とでも呼ぶべきものである。この匿名空間でエリと中国人の娼婦、そして白川は結ばれている。そのヒントはveritechという会社のネームの入った鉛筆だ。同時にこの匿名空間は高橋がその謎を解明したい巨大なタコが生息する空間すなわち法空間でもある。法によりリアル空間は犯罪者の世界と非犯罪者の空間に分割され、犯罪者は匿名空間である法空間で暴力を受ける存在となる。しかし犯罪者が暴力をふるうという単純な話なのではなく、法やTVによりつくられた不特定多数の者が暴力をふるっているのだ。

 ここで重要なのが、TVというメディアだ。TVの視聴者がTVを見るという行為が不特定多数の暴力を生み出すという一方向的なものなのではなく、TVを見るという行為そのものが、TVによって見られるという、つまりは不特定多数の暴力を受けているという双方向的なものなのだ。TVほど単純ではないが、おそらくは法も同じ構造であろう。

 最後にこれらの時・空を超越した「私たち」。素朴な疑問としてこの「私たち」も同じ穴のムジナで不特定多数なのだろうか、という問いが浮かぶ。しかしそこにはノルムが働く。「私たち」はリアルもヴァーチャルも含め時間や空間に「介入」してはならない。中立を保つというルールが働く。この点で「私たち」は暴力をふるう不特定多数とは異なる存在である。しかし匿名空間での暴力から逃れようと半分「私たち」に半分自分自身に訴えるエリ。そのエリの危機に「私たち」はノルムに背いて介入しようとしてしまう。そう、「逃げるんだ」と声に出して叫んでしまう。その声はエリには届かないが、結果としてエリは現実空間に帰還する。

 時・空を超越した「私たち」にも感情があったのだとヒューマンな気分にはなれない。なぜならルールに背くことは「私たち」と不特定多数の者を分かつノルムを犯すことになるからだ。「私たち」はいつ不特定多数の者となって暴力をふるう存在ともなりかねない、かくも危うい存在なのだ。このように「私たち」を読み解いてくると、「私たち」を筆者と読者に重ね合わせることも十分可能なように思える。なぜなら常に暴力をふるう不特定多数の者に転化するという危険性を読者の誰もが孕んでいるからだ。あるいはこうも言えるだろう。「私たち」に自分を含めようと試みる読者は、常にこの危険性を覚悟しなければならないのだ、と。

 このような危険性を含んだ世界が描写されるにも関わらず読後は暖かい感じを受け、シンプルだがそれだけ力強い希望すら抱ける。そう。日は沈み暗闇が訪れるのがゆるぎない事実であるのと同じくらい、夜が明けまた日が昇るのも真実なのだ。