Fkiri2005-10-22


ヴァリス (創元推理文庫)

ヴァリス (創元推理文庫)

 SFというよりは、ドラッグカルチャーものかな。でも物語の中の映画「ヴァリス」は、SF映画でここの描写は流石!といった感じ。ニクソン大統領のことにも触れられていて、とうじニクソン失墜がもたらした一つの意味を汲み取れる。1970年代初頭のカリフォルニアはこんな感じなのか、と。
 でもこの小説で、一番凄いのは「死」を上手に描いていること。あのアメリカ的などうしようもなさというか、諦めみたいなものが滲みでている。
 あと小説の技法でいうと、語り手が自分を客観視するために生み出したキャラが主人公であり、筆者、語り手、主人公が三つ巴になる手法がとられていて面白い。

 ファットが狂いはじめのはそのときだった。そのときファットは知らなかったが、言語に絶する心理的なゲームにひきこまれていたのだ。遁れでるすべはなかった。グロリア・ナドスンがファットを、自分の友人を、みずからの精神もろとも破滅させてしまった。おそらくおなじような電話での会話によって、ほかにも六、七人ばかり、グロリアを愛する友人たちを破滅させているのだろう。同様に、母親と父親をも破滅させているにちがいない。ファットはグロリアのおちついた声のなかに、ニヒリズムの調べ、虚無のひびきを感じとった。ファットは人間を相手にしているのではなかった。電話線のむこうにいるのは、反射作用によってうけ答えするだけの存在だった。

 「こえてるぜ」当時ファットはこういうしゃべりかたをしていた。対抗文化には無意味すれすれの語句がふんだんにあった。ファットはそういう語句をよく口にした。そしてそのときも、みずからの肉欲に幻惑され、友人の生命を救ったと思いこみ、ほとんど意味のない言葉を口にしていた。まったく何の価値もないファットの判断力は、激烈という新しいどん底に落ちこんだ。好人物の存在がファットによって不安定なものにされ、ファットに考えられることといえば、うまくやるという見こみだけだった。「びんとくるよ」また歩きだしながら、ファットがいった。「ばっちりね」
 数日後、グロリアが死んだ。

 現代人にあらわれるマゾヒズムの形態を研究して、テオドール・ライクは興味深い意見を提出している。マゾヒズムは弱められた形態をとっているので、われわれが思う以上に蔓延しているのだ。基本的なダイナミズムはこうだ。人間は不可避的なものとして訪れるよくないものを目にし、その過程をとめることができないと、無力を感じてしまう。この無力感が切迫した苦痛に対する何らかの抑制力を必要とさせる――どんな抑制力であってもいい。これには意味がある。主観的な無力感は切迫した精神的苦痛よりも痛ましいからだ。こうしてその人間は自分に可能な唯一の方法によって状況に対処する抑制力を得る。切迫した精神的苦痛を招いていることを見のがす。その過程を急がせる。この行為は苦痛を楽しむという偽りの印象を助長する。事実はそうではない。もはや無力感、あるいは想像上の無力感に耐えられないだけだ。しかし避けがたい精神的苦痛に対する抑制力を得る過程において、その人間は自動的に性感覚消失症になる(つまり性から愉しみを得ることができないか、愉しみを得ようという気になれなくなる)。性感覚消失症は気がつかないうちに生じてしまう。何年ものあいだにその人間を支配してしまう。たとえば、その人間は愉悦をひきのばす。これは性感覚消失症のみじめな過程の第一段階だ。愉悦をひきのばすことを学ぶことによって、その人間は自制の感じを体験する。禁欲的、苦行者めいた人物になってしまう。衝動に駆られることはない。抑制力を身につけたのだ。衝動に対する抑制力、外的状況に対する抑制力を。抑制されるとともに抑制する人物になる。まもなく手を広げ、状況の一部としての他の人間を抑制するようになる。操縦者になる。もちろんこのことを自覚してはいない。その人間が目論むのは自分の不能感を減じることだけだ。しかしそうすることによって、知らぬまに他人の自由を圧倒してしまう。それでもこのことからはどんな喜びも、どんな心理的利得もひきだすことはできない。本質的にネガティブなものを得るだけだ。