相互に「依存」でいいじゃん!!
       ――聞こえる!?愉快な仲間たちの笑い声

・・・。正しいのは彼かそれとも他の者たちか、といったことがそんなに重要だったのだろうか? 重要なのは、彼が彼らと絆を持ったということだ。彼は彼らと意見を異にしたとはいえ、彼らにたいして激しい共感を覚えた。彼はもう彼らの話しを聞いてさえいず、ただひとつのこと、自分は幸福だということしか考えていなかった。彼はたんに母親の子あるいは教室の生徒だけではなくなり、自分が全面的に自分自身になる人間たちの集まりを見つけた。そして、人が全面的に自分自身になるのは、他人たちと交わり合うときからでしかないのだと思った。(ミラン・クンデラ『生は彼方に』)

 二〇〇五年五月二十一日。彼方にある生を、此方に――引き摺り下ろす、言い換えれば実現化する試みが行われた。京都で数十年ぶりの「福祉」についてのデモがあったんだ。しかも、ダンスとサウンドを駆使してのデモだ。それを僕らは「福祉」×ダンサンデモって呼んだ。

 何のためのデモ? 

 そう、今年(二〇〇六年)の四月一日から施行されてしまう「障害者自立支援法」に反対するためのデモ。「自立」を支援するという甘美な言葉とは裏腹に、この法案は自立を阻害してしまう悪法と言われてる。

 「応益負担」って言葉をきいたことある?

 今まで障がい関連のサービスは、働く能力に応じてサービスの対価を払うという「応能負担」と呼ばれる仕組みだったんだ。サービスの代金を、お金をたくさん持ってる人は多く払って、お金があんまりない人はそんなに支払わなくて済むってこと。それが、この法案によって、受けるサービス(益)に応じてサービスの対価を支払う仕組みになっちまった。どういうことかというと、単純に言っちゃうと、障がいの程度が重ければ重いほどお金をたくさん払わなくちゃいけない、って話。 ひどい話だよな〜。
 もう一つ、「障害の程度に応じたサービスの支給」ってのがあって、これにも問題がある。これは、どんな障がいでどの程度なのか、またそれに応じてどんなサービスがよいかは、審議会で決めようって話。だけど、この審議会ってのが、くせもの。審議会のメンバーには障がいのことなんか知らない人たちがなるって言われてる。つまり、審議会が決める障害の認定とそれに応じた支援サービスってーのは、障がい者の本当にこうして欲しいというニーズと大きく違っちゃうってこと。
本当はこれだけは所得を保障して欲しいと思っても、審議会で決められた程度に応じてしか保障されないため、所得保障の水準は低くなるんじゃないか? また働けると認定されて、それをやったとしても職に就けるわけではない、「余計な」就労訓練に嫌々でも参加しなければいけなくなるんじゃないか?

 こんな不安や怒りが渦巻いてたんだ。

 じゃー「自立」って何なんだろう? 働いて食っていくだけのお金を稼ぐことだろうか? 一人で生きていくことだろうか? 人に頼るのは依存だといわれる悪いことなんだろうか? 
―――普段、何気に暮らしてると気付かないけど、僕たちは一人一人、皆に支えられて生きているはずだ。それはあまりにも当たり前すぎて空気のようなもんだから、日々の生活のなかでは忘れてしまう。

 じゃー、誰に支えられているのだろう?

 親か? 兄弟/姉妹か? 友達か? 先生か? 職場の同僚か? ・・・。 そういう話じゃないんだ。よーく気をつけてみてみないとわからない。自分の周りには、就労能力の有無・強弱、障がいの有無・種類・程度、住むところの有無や場所、ジェンダーや人種なんかによって様々な線が張り巡らされてて、その線沿いに見えない壁がたくさん立てられているんだ。例えば、「ホームレス」の問題は大変そうだな〜と漠然と意識なり話題にのぼっても、普段自分が送っている日々の生活のなかで、野宿者と接することが1年に何回あるだろう? 「精神障害者」ってどんな人なんやろ、大変なんかな〜、でも「なんか怖い」なー、と無意識に思ったとしても、実際に会って病気のしんどさや薬の副作用のしんどさを聞くことが一生のうちに何回あるだろう?
 物理的な壁があるわけじゃないから、おそらく日々の生活のなかで、彼/女らを見たり、聞いたりはしてるんだ。だけど、やっぱりそこには壁があるから、彼/女らが「現れ」ることはない。だから、ともすると、その壁に囲まれた狭い範囲だけで自分は生きていると誤解しちゃう。さらにはその壁のなかで自分の力だけで生きているとすら勘違いしちゃう。たとえ自分を支えてくれている人をイメージできたとしても、その壁のなかにいるほんの一部の人だけだ。その壁の向こうを知ることはない。見えないし、聞こえない・・・。

 「福祉」×ダンサンデモでは、三十名弱と人数は少なかったけど、いろーんな人が参加したんだ。「精神障害者」、「知的障害者」、「身体障害者」、「福祉活動家」、「福祉職員」、「学生」、「大学院生」、「ライター」、「労働者」、「労働運動者」・・・。いろいろ考え方や意見の違いもあったけど、このデモを通していろいろなポジションに置かれた人たちがいるんだということを、お互いに気付くことはできたんじゃないだろうか。そして、そのいろんな人たちとの交じり合いのなかで、普段の生を取り囲んでいた壁に気付くことができたんじゃないだろうか。壁をとっぱらうには、まず壁がどこにあるかを知ることからしか始まらない。そしていざその壁の存在を知ってしまったら、自ずと身体は震え、痙攣し、何がしからの音――言葉を発せずにはいられないはずなんだ。

 とっぱらった壁の向こう、普段自分たちが生きている生の彼方には、何があるんだろう?

 普段の壁に囲まれた生活からイメージしてみよう。壁のなかには、どんな仕事をしてるかとか、血の繋がりとか、障がいがあるからとか、容姿がいいからとか、しゃべり方が上手いからとか、清潔だとかで、繋がる関係がある。一方には、職場の同僚とか、家族や学校の友達ってーのがある。他方では、福祉施設での職員以外は「健常者」がいない障がい者のみの繋がりとか、風呂にずーっと入ってない人なんかの「臭い」繋がりとかがある。
 でもね。でもね・・・。壁がとっぱらわれたら、なんやこんなに面白いユニークな人たちがたくさんおるんや!って、びっくりしちゃうくらいの出会いが待ってると思うんだよね。そんな人たちと仲良く、もっと言って「仲間」になれたら、自分にもこんなユニークな面があったんだって気付かされて、思わず楽しくなっちゃうと思うんだ。
 そんな愉快な仲間たちとワイワイ笑いながら踊りながら歌いながら、持ちつ持たれつお互い様の関係で生きていく。それを「依存」だと言いたい人には言わせておけばいい。依存の何が悪いんだろう。お互いがお互いに依存してるってのが、当たり前の生のあり方じゃないか。その相互の依存のなかからしか見えてこないもの(――うぇっ)、聞こえてこないもの(――うぇっ、っうぇ―がある―うぇっ、っうぇ―――うぇっ、っうぇ―――――・・・

            

Who are you? ――うぇっ、っうぇ―――

Who am I? ――うぇっ、っうぇ・・・・


 それが何なのかをここで記すのは難しいから――、うぇっ、っうぇ――、ぜひ一緒にデモをやって身体を動かしてもがいて――、うぇっ、っうぇ――――、うぇっ、っうぇ――、踊って歌って確かめてみよう。多分――うぇっ、っうぇ、うぇっ、っうぇ――大合唱だ〜!!――うぇっ、っうぇ、うぇっ、っうぇ――――うぇっ、っうぇ、うぇっ、っうぇ―――。

 え? 次のデモまで待てないって? それが何なのかすぐ知りたいって?

 じゃー、ちょっと長くなるけど、結びに代えて、次の言葉を借りてこよう。

言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。そしてこの挿入は、第二の誕生に似ており、そこで私たちは自分のオリジナルな肉体的外形の赤裸々な事実を確証し、それを自分に引き受ける。この挿入は、労働のように必要によって強制されたものでもなく、仕事のように有用性によって促されたものでもない。それは、私たちが仲間に加わろうと思う他人の存在によって刺激されたものである。とはいうものの、けっして他人によって条件づけられているものではない。つまり、その衝動は、私たちが生まれたときに世界の中にもちこんだ「始まり」から生じているのである。……。人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。しかしその人の肉体的アイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現われる。その人が「なに」(“what”)であるか――その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥――の暴露とは対照的に、その人が「何者」(“who”)であるかといこの暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべて暗示されている。(ハンナ・アレント『人間の条件』)